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心と身体のよりどころ

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和童塾 9.21  ~ディスカッション編~

** 命がけ **

先日の和童塾で、私は唐突な質問を皆さんに投げかけてみました。
「命って どう思う?」
「何故 生きているんだろう?」

この質問にまともに答えられる人がいたら、類まれな賢人か似非哲学者のどちらかじゃないかしら。
「命とは」私たちが生きている限り、永遠のテーマです。
命がどんなものなのかを突き止めたくて、山にこもって滝に打たれてあらゆる邪念を取り除き、命と向き合おうと辛い修行に励むお坊さんたちもいたわけです。
私利私欲にかられている限り、一生かけても答えは見つからないでしょう。

私は人の命と真っ向から向き合った経験が2度ほどあります。
父と主人。
二人とも病を発症して亡くなりました。
父のときは、人間の死と初めて向き合った上に知識がなかったので、かなり狼狽し、心身が乱れました。
主人のときは、ある程度の知識を得ていたので、父のときとは自分の対応が違ってました。
けれども、何度経験したって愛おしい人の死に対面するのは辛いものです。
父も主人も失いたくなかった。
でも、どんなに私が願っても、私の私欲で人の寿命を変えられるほどの力など持ってはいません。
主人の病が進んで身体がみるみる痩せ細り、様々な身体機能が働かなくなっていくのを留めることができない。
彼の命の灯火が消えかかってきたときに、痛烈に感じたことがありました。
「主人を失いたくない。死なないでずっと傍にいてほしい。でも死なないでと思うのは私の欲なのかもしれない。私が心の底から願うことは、彼の進化であり、彼自身の発展である。ならば、今の肉体を維持することを願うのは、私の執着なのかもしれない。彼の今の生に執着するのではなく、もっと根底を見てあげなければならないのではないだろうか。」
そう思えたときに、私自身の使命のようなものを感じました。
「彼の魂を輝かせるために、私ができる精一杯のことをする。」

たとえ彼が死を迎えてしまったとしても、彼そのものが消えるわけではない。
私には見えないけれど、死後の世界で彼は生き続ける。
肉体がなくなっても彼の本質は残るはず。
ならば、命の先にある彼の魂が強く、大きく輝き続けることを願い、そこに私の全精力を注ぎ込むことが、今の主人にとってもっとも大切なことなのではないだろうか。
そうしたときに、狼狽せずに冷静に今なすべきことは何かを考えることができたのです。
いたずらに自分を戒めることもなく、病などに冒された彼を非難することもなく、ただただ彼の魂が輝き続けることを願い、精一杯お世話をして彼を看取ることができたのです。

命とか魂とかがどういうものなのか。
もしかしたら私たち自身が死を迎えたときにしか分からないことなのしれない。
死を迎えても分からないかもしれない。
ひょっとしたら、突然答えを見つけることができるかもしれない。
理屈で考えても駄目ってことです。
最近は、命とか魂とか有限でない、手にとって実感できるものでないことには目を向けない人が多くなってしまいました。
私は命、魂は実在するものと信じています。
命、魂に目を向けない人が増えてしまったから、摩訶不思議な人種が増えてしまったと思ってます。
命の尊さ、尊厳に目を背けてきてしまったから、平気で人を刺してしまう。
ペットの世話ができずに虐待したり、死なせてしまったりしてしまう。

では、命・魂の答えを見つけるまで何をすればいいのか。

その答えは簡単です。
「今、やるべきことを精一杯やりぬくこと。」
ちょっとオーバーに感じるかもしれませんが、正真正銘 命がけで取り組むことです。

子供は学校へ行って勉強する。
なんとなく学校へ行って、ただ教科書を広げるんじゃなくて、一生懸命脳を働かせ、新しい回路を作ることが大切。
その中で、もっと探求して理論をまとめてみたいと思えれば、大学や大学院まで進み、深く探求すればいい。
家庭の主婦は、命がけで家事をこなすべきなんです。
そうすれば、子供はグレナイし、ご主人もよそ見しないで家庭を大切にするでしょう。
何事も、「いい加減」が見えてきたときに、バランスを崩してしまいます。


主人は激動の短い人生を終えていきました。
彼の生涯は、常に「命をかけて相対する」人生だったと思います。
私が彼と一緒にいたのは、その中のほんの数年のことでした。
でもその数年間で、さまざまな命がけの局面を目の当たりにしてきました。

主人を求めてきてくださるクライアントさんには、どんなときでも全力を注いでました。
どんな人がこようとも、絶対に手抜きはしません。
彼の中に手抜きというシステムが備わっていませんでした。
命がけで相手と対するから、相手のことがよくわかり、適切な指導ができていたのでした。
私と主人の最も違うところは、「集中力の差」だと実感させられる毎日でした。
主人が晩年、起きているのも辛い状態になったときでも、自分を見舞いに来てくれた人に対し、「この人にはこういう助言が必要だ。このことを理解してくれたら、今後の人生がいいほうに変わっていく。」
と見抜き、相手にそのメッセージをとどかせようと、命がけで必死に語り続けてました。
自分がどんなに辛くても、自分の状態は相手に伝わらないように押し殺し、あくまでも相手がよくなる事だけに精力を注ぎ、何時間でも語り続けていました。
見舞い客が帰った後は、ぐったりとしてしまうのはいうまでもありません。

「あー、またこの人寿命を縮めてしまった。」
毎回、私のほうがそんなことを考えてしまってました。

何故、主人はそこまで相手と命をかけて対してしまうのか。
それは、主人が長年ついやしてきた武道の鍛錬から養われたものだと思います。
空手で相手と対するとき、相手を倒さなければ自分がやられてしまう。
一歩間違えば、命を落としてしまう。
だからいつも真剣勝負です。
そこにいい加減など通用しません。
主人も真剣を手にしたことがあったそうです。
自分が刀を人に向かって振り下ろせば、人の命を奪ってしまう。
反面、人が自分に刃を向けてきたら、命をかけて防御するか、逆に相手を倒さなければ自分が死んでしまう。
適当に刀を扱うなんてできません。

そんな武道の鍛錬から得た「命がけ」の集中力は、とても強靭なものでした。
いつしか武道の稽古場だけでなく、彼の人生そのものになっていったのでしょう。

<つづく>
by idun-2006 | 2008-09-23 15:30 | 和童塾

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